青年期もらとりあむ

浪人生の日記です

回鍋肉

 最近考えてたことを書きます。自分は人格障害だと思い込んでる男の寝言だと思ってください。少々長いですが、読んでくれると嬉しいです。タイトルは今日の晩御飯です。



 乳児には自他の区別がついていないらしい。母親を自分の一部として捉え、思い通りに動かす。成長につれ自他を区別出来るようになるらしいが、青年、はたまた老人になってもこの課題を達成できてない者が多くいる気がする。(歳だけ重ねた老人ってうざいよね)

 いい大人同士の口論で、「それはあなたの感想ですよね」や「自分の意見を他人に押し付けるな」という文句を聞くことがあるが、これはまさに自他の区別の問題だろう。自分の思考こそが最高のものだと信じ、人にも同じ思考を強制しようとする。そこに悪意はないどころか、本人は相手を啓蒙する教師になったような気であるから、タチが悪い。

 そういったことを行う人の中には、「自分は人として相手より優れている、偉いんだ!」と信じて疑わない、幼児的万能感で溢れる人が沢山いると思う。もしかすると彼らは見た目が良かったり、裕福だったり、会社の重役だったり、勉強がよく出来る人だったりするかもしれない。だが、醜美や貴賎や地位や能力は決して人の”人としての価値”を決定するものではない。それらが測ることができるのは、物質的価値、商品的価値である。

 では、一体何が人としての価値を決めるのだろう。僕が思うには、そんなもの存在しない。そもそも人格を相対的に価値付けることが出来ないのだ。

 このことは自他の区別のない人には理解できない。自分の領土の中では当然自分の好きなように出来る。どこに重点を置こうと彼らの自由だ。彼らは他人が自分の領地内にいると思って、思い通りに動かそうとする。だがそれは上手くいくことは無く、その矛盾した感覚に人は苦しむ。

 またまた境界が不明瞭だから、彼らは明確に商品的価値で線を引いて安心する。

 その線は明確だが不安定なのだ。見た目はいつか老けるし、お金も無くなってしまう、地位も他人に狙われるし、能力もほとんど相対的なものである。線の中にいるには、常に自分の理想通りでなくてはならなく、大変な努力が必要である。

 もっと酷い場合には、理想の自己のイメージだけが膨れ上がって、実態が伴わない。今の自分を受け入れることが出来なくて延々と苦しみ続ける。

 そんな過酷な世界で、彼らは心が荒んでしまう。安心を求めてさらに多くの線を引くこともあるだろうが、やはりそれも一時的な安心であり、結局は自分を苦しめる。

 原因は自他の区別が出来てないことだから、解決策は自他をきちんと区別することだと思う。簡単なことではないが。